千と千尋の神隠しから学ぶ資本主義の本質|宮崎駿が伝えたかったこと
- かんざき政人
- 5月15日
- 読了時間: 8分
地域課題の背景事情を探る
前回のコラムでは、山間地域の高齢化問題について述べた。
こうした地域の問題の解決策を考えるにあたり、本質的な解決を目指すには、まず問題の背景事情をしっかりと掴まなければならない。
背景事情とは何か、それは現在の社会システムである。
現在の日本の社会システムは、民主主義、そして新自由主義社会である。
そうしたマクロ的な視点から問題をみて、根本的な原因を掴むことができるのである。
実は、人気映画「千と千尋の神隠し」には、エンタメ的な面白さを保ちつつも、そうした社会システムに対する批評がメタファーとして描かれている。
そこで今回は、新自由資本主義について、「千と千尋の神隠し」から学んでいきたい。
なお、これらの批評は完全に私見である。
また引用している画像は、ジブリ公式HPの無償画像ページのものを利用している。
引用元:ジブリ公式HP https://www.ghibli.jp/info/013772/
METAPHOR01 両親がブタになるシーンが伝えたいこと

物語の序盤で、千尋の両親は、店に並べられた料理をむさぼった後、ブタに変わる。
とても有名なシーンであるが、ここでメタファーが描かれている。
ポイントは「なぜブタなのか?」ということ。
別にネズミやハエ等でもよかったはずである。
そのヒントは、物語の後半で湯婆婆はこの両親のことを示して話した言葉にある。
「親豚はベーコンにでもハムにでもしておやり!」
ベーコンやハムとは、お客さんに出す料理でありお店の商品である。
つまりその原材料となるブタも畜産商品。
つまり、千尋の両親を商品として描いたのである。
千尋の両親が何らかの労働者であることは想像できる。
現代の資本主義社会では、労働者もまた 「労働力という商品」 として市場に並ぶ。
転職サイトのCM等でも、「自分の市場価値を高める」といったフレーズがある。
労働者は商品、そうした意味が隠されていた。
METAPHOR02 窯じいとススワタリのいるボイラー室が意図すること

窯じいの作業場であるボイラー室では、小さなススワタリたちが石炭をせっせと運び、窯じいは巨大ボイラーで湯を沸かしている。
このシーンもメタファーである。
ポイントは、 “石炭” と “蒸気”。
この作業場は、産業革命で始まった本格的な資本主義の縮図を示している。
石炭と蒸気が機械を動かすと同時に、人々は「自由ではあるが生きるために自分の労働力を売るしかない」 存在へと変わった。
労働者が 「商品」 となった瞬間である。
ススワタリは、商品となった労働者。
石炭を運び続けない限り、湯屋は止まり、彼らは生きていけない。
このシーンでは、窯じいがススワタリに対して、「代わりはいくらでもいるんだ。」という言葉をかける。
その言葉の意味は深く、重たい。
METAPHOR03 ひよこの神様を描いたのはなぜ?

湯船に浸かるヒヨコの神様達、とてもかわいい。
これもメタファーである。
ポイントはヒヨコがたくさんいること、そしてオスのヒヨコのような描写であること。
鶏卵産業では、卵を産まないオスのヒヨコはふ化当日に処分される。
卵を産まないオスのヒヨコは、「価値が生まれない」から必要ないのだ。
つまりこのヒヨコの神様たちは、資本主義の 価値至上主義を示している。
付加価値ゼロを生み出さないなら、存在さえ否定され、尊厳ごと切り捨てられる社会の縮図を示している。
湯屋では、手足のような“大根の神様も登場するのを覚えているだろうか。
畑で大根を栽培すれば、手足が生えたような大根も時折収穫されるが、そうした大根は、スーパーに並ぶことはない。
オスのヒヨコと同様に、そうした歪な形の大根は売れないので価値がないのである。
ヒヨコや大根を神様として描くことで、価値がないものにも尊厳があることを訴えている。
METAPHOR04 荻野千尋が「千」になる

千尋は湯婆婆と雇用契約を結ぶ際、「荻野千尋」からたった一文字「千」に名前を削られてしまう。
これもメタファーである。
名前には、家族の歴史や両親の願いが込められてる。
ところが労働の現場では 、そうした「個人の物語」 より「識別できる記号」で問題ないのだ。
尊厳ある「人」としてではなく、「労働力という部品」として扱われる。
そう割り切られる瞬間を、湯婆婆が名前を奪う描写で可視化したのだ。
METAPHOR05 お腐れ様

千尋が必死で世話をしているのは “お腐れ様”。
このシーンの見た目どおり、環境破壊のメタファー だと気づいた人も多いはずだ。
現代資本主義での、自然とは
① 資源を奪う場所
② ゴミを捨てる場所
である。
私の持っている携帯電話だって、地面を大量に掘削してとれるレアメタルが多く含まれている。
「未来? 知らない。今もうかればいい。」
欲望のツケを押しつけられるのは、結局私たちの次の世代。
お腐れ様は、そうした環境破壊を伝えている。
METAPHOR06 カオナシ

底なしの欲望を抱えたカオナシ。
金をいくら出しても、食べても、孤独感は埋まらない。
これは 「現代人の尽きることのない欲望」のメタファーだ。
手に入れても、満たされない。
もっと欲しくなる。
欲望が終わることはない。
「足りない」と感じるのは、本当に欲しいものが「お金では買えない」 からだ。
カオナシがやっと落ち着くのは、飲み込んだ全てを捨て、受け入れられた瞬間である。
「足りない心」 を満たすのは、お金ではなく愛なのではないか。
経済的価値ばかり追っていないか。
私たちが忘れかけた価値を問いかけている。
METAPHOR07 戻りのない列車

千尋とカオナシが乗る、この 「戻りのない列車」。
カオナシ=欲望に飢えた現代人、そこまでは気づいた人も多いはずだ。
けれど真のメタファーは 「列車そのもの」である。
ポイントは、「沼原」や「沼の底」といった一度はまると抜けられない沼が含まれた駅名であること。
この路線は一方通行であり、窯じいも千尋に「戻りはない」と警告した。
これが意味するのは、資本主義がモノもヒトもサービスも商品化という沼へ一方的に運びつづける構造である。
いったん商品になった瞬間、引き返すレールは存在しない。
そしてその商品が持っていた性質は、単なる費用に対する効果という性質に抽象化されてしまう。
あらゆるものが欲望により商品化され、一度、商品化されると元の意味を失い、もう元には戻らなくなる。
資本主義の不可逆性 が、たった一編成の列車で描かれていたのだ。
METAPHOR08 銭婆婆の家① 糸車の意味

銭婆婆の家では、2つのメタファーが描かれており、まず一つ目を説明する。
ここでは、ネズミの坊たちが糸車を回している。
報酬ゼロでも、糸車を回しつづけるネズミの坊たち。
資本主義では「労働=対価」が常識だ。
しかし、ここで彼らを動かしているのは 給料ではなく、千尋への「愛」。
「無償労働」、ボランティアや家事・介護など、実は社会を支える土台にも関わらず、GDPにすら計上されない労働がある。
ネズミの糸車は、貨幣では測れない価値が社会を回していることを可視化したメタファーだったのだ。
METAPHOR09 銭婆婆の家② 銭婆婆と湯婆婆

銭婆婆の家での2つ目のメタファーについて説明する。
銭婆婆は「私と湯婆婆は二人で一人前」と千尋に語る。
これはどういう意味なのか。
銭婆婆の銭とは「貨幣」、湯婆婆の湯とは「技術」。
資本主義は、この 「貨幣」と「技術」を「欲望」が結びつけて膨張してきた。
ここで銭婆婆は、「愛で結び直す」 ヒントを示す。
貨幣 × 技術 × 欲望=資本主義
であるならば、
貨幣 × 技術 × 愛 =??????
この三つが揃ったとき、資本主義社会の次となる社会への扉を開くことができる。
そうした宮崎駿のメッセージが隠されていた。
METAPHOR10 両親はブタではない

千尋は両親が豚ではないことを言い当た。
何故、見抜くことができたのか。
千尋がこの世界に巻き込まれたとき、子供ながらにも既に資本主義のフィルターを通して世界を見始めていた。
冒頭シーンで、「1本のバラのプレゼントなんて、花束じゃない。」とプレゼントの価値を花の多寡ではかるようなセリフからも垣間見える。
神隠しの世界での千尋の成長により、資本主義のフィルターが外れたのだ。
曇りなき目で見たとき、両親とは愛すべき親であり、労働力商品としての豚ではない。
千尋がそうした資本主義社会の洗脳から解けた描写だったのだ。
まとめ 宮崎駿が描きたい世界
今回紹介した 10個 のメタファー以外にも、千と千尋の神隠しにはまだまだメタファーが隠されている。
娯楽でありながら、現代社会への警鐘を促す。
それが宮崎作品の唯一無二さだ。
そして彼が一貫して挑んだテーマは、愛を基軸にした社会の創造。
ただ、現代社会の問題を指摘し、新しい社会に必要な要素まで提示できても、その構造まで描き切ることは叶わなかった。
最新作「君たちはどう生きるか」を見ると「理想郷は、人間の手では作れない。」 と悟ったしたように感じた。
どうしても必ずどこかで綻びができてしまうのだと。
私自身も、資本主義の次にくる世界を完全に示すことはできない。
しかし 、できることからでも始めるべく、その要素を政策に反映させている。
・デジタルデモクラシー:公平中立な公共政策を実現する民主主義をデジタル化
・幸せ指標:付加価値の向上ではなく、市民の幸せ向上を目標とする
目的は持続可能な岡山市 を実現すること。
マクロ的な社会背景を意識し、将来への一歩となる政策を進めていきたい。
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